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地面のほうを見ていた日。
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桜はもう、ほとんど見かけなくなった。
すっかりあたたかくなって、上着もいらなくなって、街の色も、いつの間にか次の季節に移っている。
少し前のことになるけど、雨が降った日のことを思い出す。
あの時は、まだ桜が残っていた。
満開に近くて、このままもう少し続くような気がしていたけど、夜のあいだに降った雨で、朝には景色が少し変わっていた。
道の端や、水たまりの中に、花びらが泳いでいた。
道行く人は、みんな少しだけ足を止めて、同じ水たまりを見ていた。
自分も、その中の一人だったと思う。
枝に残っているものよりも、地面のほうに目がいく。
風が吹くたびに、少し遅れて落ちてきて、
それが水に触れて、ゆっくり広がっていく。
咲き始めて、満開になって、人が集まって、
少しだけ生ぬるい空気が流れている。
毎年だいたい同じ流れなのに、その時はちゃんと、桜の季節らしい空気になる。
満開の良さもあるけど、
散ったあとのほうに目がいくこともある。
あれはあれで、ちゃんときれいで、
その分だけ、少しだけ寂しい。
今になって思い出すと、あの時のほうが、長く見ていた気がする。
満開の時よりも、足が止まっていた。
雨が降ると、少しだけ早く終わる。
そういうものなんだろうけど、
あまり「やめてくれ」とも思わなかった。
むしろ、そのあとに残る景色のほうを見ていた気がする。
濡れた地面に張り付いた花びらとか、
水たまりの中で揺れていた色とか、
断片だけが、あとから残っている。
満開の時よりも、
少し曖昧で、
でも、そのほうが思い出しやすい。
満開の時よりも、
こういうほうが残ることもある。
少し崩れたもののほうが、あとに残ることがある。
使い込まれたもののほうが手に馴染んだり、
少し音が外れたほうが、なぜか耳に残ったりするみたいに。
きれいに整っているものとは、少し違うところに、記憶に残るものがある気がする。
もう桜はほとんど残っていないけど、
こういう日のことのほうが、あとに残るのかもしれない。
秋谷啓斗
